コンテンツへスキップ

私の制作の背景にあるモノ vol.2

昨日から始めた、日記のような、独り言みたいなこのシリーズ。

まだ多分、誰かの目に触れたりもしていないのかな、というところで気楽に。
思ったことを徒然と書いています。
徒然なので、どこに辿りつくのかわかりません。
すぐに着地させようとも、していないので、
そういう読み物になれている人には相当きついかなと。
気が向いたら、一緒にこの果てしない旅に同行してください。

 

 

昨日、無意識をカタチにしている、

といいました。

今日はそこについてちょっと考えてみたいかなと。

意識の領域が分類や記号化、言語化できるもので支配されているのに対して、

無意識は未分化、未分類、且つ時制すら存在していない領域だと考えています。

混沌としたままで放っておいても、特に触れようとしなければ問題は起きない領域。

わたしは無意識の領域と子供はほぼ等しいと感じています。

例えばよく子供って、「自然」だとか「宇宙人」みたいだとか、
「野生児」とかいわれたりしますよね。

彼ら、大人の言葉も概念もこちらの都合で設定したルールも、
しったことかといわんばかりに無視して
こちらからしたらまるで無意味で無秩序に見える行動をとったりする。
大人からしたら困ることをするのが子供の仕事なのかと時々感じるほど。

大人の言うことが子供に通じなかったり、
逆に大人が子供の言うことに理解を示せないだとか。
そういう、意思が通じない相手に対して
「自然」、「宇宙」、「野生」という言葉を充てて、
理解できなくてもそのままでよしとする、仕方がないと思う。
というやり方。
実はこれは結構面白いなと思うのです。

ちなみに我が家の3歳の娘は、まだ、過去、現在、未来が混在しています。
過去のことが今になりもするし、未来のことを今にしたりもするし、
今が未来にもなります。

自然も宇宙も野生というのも、わたしたち人間には理解の及ばない、でも憧れたり、
畏敬の念を抱く存在です。
子供に対してそういう言葉を使うというのは、だからある種彼らへの敬意でもあるんだろうと。
同時に脅威、ですよね。子供はどこか破壊的ですから。予想不可能な存在という意味でも。

ただし、

破壊のあと、またなにもないところから創造するのが子供は大好きです。
もっと言えば、それを繰り返すのが大好きです。
延々と繰り返しても、満足ということはなく、疲れ果てて寝てしまうまでそれが続くときもあります。
実はわたしからみた破壊も創造も、子供にはきっと、特に意味はないのだろうと。
壊すことにもなにか創造がはたらいているのかと感じるときもあります。
自分にとって納得のいくなにかを無心に探している、そんな風にも見えます。

たぶん、わたしたちの目に見えるかたちにというよりは、
彼らのその行為のなかに、真実が在るのかも、と私はおもうのです。


最初に私は無意識と子供は同じだと思うといいました、

ということは、

ここまで「子供は」、といってきたところを全て「無意識は」と言い換えることも、
できるのかなとわたしは思っています。

 

自由といえば自由。
不自由といえば不自由。

 

そういう状態が、無意識なのかなと思っています。

なにが自由なのか、不自由なのか。

つまり、言語や記号、数字に頼らなくても構わないとしてしまえば、自由。
カテゴライズできないからこそ、
枠にはまらずに変幻自在で流動的な状態を維持できる。そういう自由さ。

けれど、その状態を誰かほかの人に伝えなければとか共有したいとなれば、
そこには共通の認識を得るための何がしかの言葉なり記号なり数字なり、
なにか伝える「道具」が必要になります。
なので、そこには大なり小なりの不自由さは生じるとわたしは思うのです。

赤ちゃんにしても、幼い子供にしても、
大人になっても、その言葉にできない思いを伝えたいのに伝わらない、
となるとストレスを感じるし、泣いたり怒ったり、
「感情的」に表現しようとすることが多いと思います。

(無意識に抱えてる言葉にならない感情を理路整然と語れるはずはない、とわたしは思っています。仮に語ったとして、そこで筋の通らない部分に関しては置き去りになってまた無意識の底に沈殿してるだろうと、
少なくともわたしは、そう感覚しています。)

でもそれは、相手にとって受け取れるかたちではないことが多いし、
(泣かれてもかけるべき言葉はわからず、怒られたら怒り返したくなるか、逃げるか、、、)
あるいは自分自身、その無秩序に発露した感情に巻き取られてしまいそうになって窮屈に思うこともある。

共通認識の枠の中に入れない疎外感や孤独感、違和感。
共通認識の中にそれをいれようとすることで生じる不具合、歪み、
そういう不自由さ。

無意識ってそういう存在ではないかとわたしは思います。

 

 

でも。

 

 

「自然」で、「宇宙」で、「野生」なんです。
つまり、摂理がある。
そして真理も、其処にある。

「無意識」は、言語化も記号化も数値化もできないからこそ、
意識的に誤魔化しようも、虚言もしようのない領域。

つまり既存枠では秩序だてようのない「秩序」がそこには存在しているはずなんです。
わたしたちの知り得ない、いってみれば神聖なもの。

わたしはそれが、「混沌の秩序」だと感じています。

「混沌」には秩序がないわけではなくて、「混沌」にはそれをそのままで維持するなにかしらの摂理が働いていて、そうあることに意味があるのだとわたしはこのところ実感しています。

それは、古事記のはじめにある一節のような。
世界に天も地もない混濁とした状態のときと同様に。

それが私たちの中にはまだ、残っているのだろうなと。
そして、自分の中にその始まりと、同時に虚しさを感じるのです。

わたしが秩序だと思うことは恐らく幻想なのです。
幻想を具体化している、
でも実態をもつことで尚、それは幻想だと痛感させられる。
幻想が得たかたちは中身が虚ろの傀儡なのではないか、とさえ思う。

だから、わたしは次々と作品を生んでいるのだと思います。
一見脈絡などないようにみえる作品の展開をしているのも、
無意識に見た幻覚に一度かたちを与えるたびに、その秩序は崩壊してしまうから。

特にわたしは陶芸をしているので、
焼くという行為がそのままイメージや制作時の感情や感覚の消失(焼失)だと
捉えているのもあって。






というのも実は言葉遊びのようなもので、

本当はどうかしらないし、知らないままでいいとも思いつつ、制作の根幹にあるモノの素姿をみつけようと、こうして延々言葉をこねくり回しているという・・・。

わたし、こんなことを話してますがとくにスピリチュアルに興味もなければ、
神道でもなく、
心理学に興味があるわけでもありません。

ただただ、

 

つくりたくてつくっている人間なのです。

別に総てをきれいに整えなくても、
わたしの考えていることはひとに見せてもいいだろうと思うので。

だって、総てきれいに整うだなんて、
整った!と仮にそう思ったとして、
その次の瞬間にはきっと崩壊している。
だって、わたしは実感しているから、
感覚が留まることはない。

留まることがないのは、無意識のおこす波風によるもの。
意識で留められるものではないのですね。
それこそ、例えが悪いかもしれませんが、自分の意思とは関係なく自然災害に巻き込まれるのと、制作はどこか似てるようにわたしは感じています。
いつも、生と死が隣り合わせにあって。

これだと思う瞬間それは崩れていく、
それが、真理なのかも。

さて、次はここからどんな展開になるのか、

私自身すでにもう、先が見えなくてわかりませんが、

ゆるゆると続けていこうと思います。

そのうちその中にぼんやりなにか浮かび上がってくれることを期待しつつ。

 

 

今日はここまで。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です