Chisato Yasui
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いろんな王国がある。

2020-07-28 こども してん 境目

 

世の中、ひとそれぞれに大切にしていること、価値をおいていることってあって、
その全てに共感しあえたり理解しあえたりなんていうことは、おそらく不可能。
先日みた海外ドラマで、人間のニューロンの仕組みを活かして共感をひろげれば地球は平和になる、
なんていう話が(もちろんファンタジー)出ていたけれど、それは逆に恐ろしい結果を招くのではと、

わたしはぞっとした。
 

それぞれに、大切にしていることは、それに対して限定的に共感しあって喜びあえる仲間がいるとは思う。そういう仲間で構成されているコミュニティーはまるで、「王国」のようなものなのではとわたしは捉えている。

この地球上にいろんな国があって、それぞれの国の歴史背景や、ルールや、価値観、文化が存在しているように。 

 

 

長男との関係からきづいたことについて。

 


前回のブログが、5月22日の投稿だとか。今は、7月27日。随分間が空いた。
二か月。

 

 

この間に、コロナ自粛があけた。こどもたちの小学校は通常営業になった。
東京とか、県を跨いでの移動が罪悪感なくできるようになったり。

長女長男は、習い事に行けるようになった。
といっても「日常が戻った」とはいいがたい、なにか妙な心地の中にいる。
私の知っている「日常」とも「非日常」ともどちらともいえない、その狭間にひっかかっているような気分。 

 



そうそう。この自粛中に、こどもたちは新しい習い事を始めた。

長女は、オンラインでのバレエ、ヒップホップダンス。
真ん中の長男は、オンラインでのボイストレーニングと、図工教室。
そして末っ子次女はバレエ。
 

 

基本、うちは子供がやりたいということにしかお金を出さない主義。 

長女なんかは、やりたいといって始めたことのはずなのに、家での練習をさぼることもあって、

(私)「あなたがやりたいといっているからお金を出しているのであって、やる気もないし面倒くさいのだったらやめてもこちらは構わないの。それをしているから偉いとか、すごいとか、わたしたちはそんなこと思っていないのだから。自分が素直に心から夢中になれることに時間をかけることが大切だと思うの。」
と、定期的にわたしたち親からくぎを刺されている。  

 

 

夢中になれるなら本当はなんでもいいはずなんだけど、、、

 

「自分が素直に心から夢中になれることに時間をかけることが大切」
そう言う度に私の中でひっかかることがある。
長男のこと。

本当は、本人が言いださない限り習い事はさせない方針できたのだけれど、
長男の習い事だけは親の意向がきっかけなのです。


なぜきっかけを与えたのかというと、その理由は「ゲーム」。

長女が小学4年生の時に手に入れたDSを、4つ下の弟=長男が使うようになりました。
長女はもともと本の虫で、早々にゲームには飽きて、やるとしてもたまにくらいのものだったけれど、

 

長男は違った。わたしからすると気がくるってるんじゃないかというくらい、ゲームばかり。
ゲームがあれば、他に何もいらないし、お腹も空かない。
「あ~やってしまった。いらないものを与えてしまった」とわたしは深く後悔していました。
つい最近まで。


つい最近、
そう、ふっきれたのです。
彼のやってることにわたしは理解をしめせないけれど、今のわたしって、わたしがやってることに理解をしめさないひとたちと同じことしていない?それって、…やだな。
そう気づいたことが、きっかけ。 

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

その価値をわからずに批判するのってよくない。

 

たとえば、つくることに夢中になっているわたしを、誰かが止めることある?
よくないって遮ることあるだろうか?
 

ない。
 


わたしにとって、アートというのは幸福の象徴みたいな、或る種偉大な王国かもしれない。
わたしはそこに属していることでなにか得も言われぬ安心感を手に入れていたり。
わたしはつくるという行為を続けていないと、無性に不安になったり、元気をなくしてしまうわけなのですが。その「つくる」とか「作品」とかはどうしたら役に立つの、どんな意味があるのっていうところで、いまのところ「アート」という枠内に入れさせてもらっているのだけれど。


「アート」って、少なくとも社会の中で悪いものとはされていなくて、寧ろ肯定的な立ち位置に暗黙のうちに在る。美術館、ってきいて、なんかちょっと高尚だなとか近寄りがたいなっていうことはあったりしても、そこを「悪い場所」と思う人って少ないと思う。
既にそういう価値を与えられているところに「所属しようとしている」自分。
その自覚は必要だと思う。


 

 

対して、「ゲーム」。
現代ではゲームは職業にもなっているし、Youtuberがゲームの解説動画で稼ぐような時代。どれくらい昔から大会とか賞金稼ぎってあったんだろう。とにかく今も変わらず遊びとして便利なツールで、子供たちには大人気、大人だってスマホアプリで移動中の時間も惜しんでゲームに勤しんでいたりするほど。
ゲームに対して「悪いもの」のイメージは社会的には無いのかなと思う。テレビ番組で芸能人が夢中になって解説しているのを観ると、わたしは興ざめしてしまうけれど、視聴率が取れるもの=ある一定数の人間にとって有意義なものなのだろうなと思う。

 

「ゲーム」。でもわたしはやっぱり、その良さはわからないし、なんだかとても受動的で、自分の子供がそれに向かって居る姿をみていると、子供がゲームに無意識に操られている状態にも見えて。
親という立場では、「ゲーム」を「悪」とか「下等」に扱ってしまう自分がいた。
 

たとえばそれは、不良が自分の子をそそのかしていたら、払いのけてしまう。不良=悪い子なわけじゃなくても、そのイメージだけで。「ゲーム」に対しての決めつけたイメージは、そんな感じと近い気がする。 

 


本当は子供に任せるのがいいのかも、と思ったりもしたけれど、やっぱり気になる。

ルールをつくるか、他に興味の対象をつくってみたら何か変わるのかなと思って。

 

他の場所ものぞいてみたらどう?

 

それでわたしは、
「ねえ他のことでもっと楽しめるんじゃない?自分で何かつくるとかさ、本読むとか、外で遊ぶとか、何か別の事しようよ」と促してみることにした。

 

一緒に何かをしてみたりもしたし、彼に道具や素材を与えたり、旦那さんに外へ連れ出してもらったりもした。だけど、親と子の距離感というのがそれはまたそれで難しかった。
声かけの仕方とか、見守る距離感とか。もっと手放しに長男のこと見ていたいし、何かを一緒に喜んだりとかしたいのになと思って、「そうか、自分じゃない人に長男を託してみるのがいいのかも」と思い直した。 

 

そんなわけで始めたボイストレーニング、ミュージカル、図工教室。

 

それはそれで長男はすぐにハマって、それぞれにやりがいを見つけてくれた。
「僕って歌すきなんだね!」とか、「僕セリフ得意なんだ!」とか、「先生に僕が作ったものみてもらいたい!」とか。何をするにしても自信をもって取り組むようになっていて、活き活きしている姿をみているのはわたしはとても嬉しかった。長男の素直さと単純さが、よい方向に働いたのだなと思う。

彼にそういう、「ゲーム」以外の楽しみが増えた。
じゃあ長男が「ゲーム」を手放す時間が増えたのか?というと。
 


 

「ゲームの王国」は長男にとって特別な場所なことに変わりない。
  

じゃあゲームがなくても大丈夫になったのか、というとそうではないのです。
未だに、ゲームがさせてもらえないだとか、ゲームが中途半端なところ(わたしにはどこがいい「キリ」なのかわからない)でやめさせられると泣いてしまうほど、ゲームフリーク。
依存症なのかな、と心配になることも何度かあった。 

  

それでもいいかと思えたのは、わたしの制作同様に、長男にとってそれが精神安定剤的な役割をはたしているのだと、なぜかある瞬間理解できたから。 

最近は離れた友達とオンライン上のゲームでキャラクター越しに一緒に「ゲームの世界」で遊べる(戦える)のでそういう安心感や、充足感を与えてくれるものでもあって。
自粛期間、友達と会いたいのに会えないということもあったから、なるほど今はこれが子供の世界のコミュニケーションツールなわけなんだなって。
考えてみれば、わたしたち大人もZOOMを使ってオンラインで友達と話したりしていて、それは別に問題にしないわけで。
なにがそんなに違う?

わたしの制作と、りくのゲームと。何がどう違う?

正直それを比較するなんてことすらナンセンス。 

 

 

よくわからないうちに、受け入れられる事ってある。 


 


私には「ゲーム」そのものの良さがいまのところよくわからないのだけれど、
彼にとって「ゲーム王国」は安息の地であり、好奇心やチャレンジ精神が刺激される冒険の場でもあり、価値ある場所だということ。「ゲームのたのしさ」「ゲームの有意義さ」がわからなくても、実感として「長男はゲームの世界を大切にしている」というのが腑に落ちた。


よくわからないのにも関わらず、外側ーかなり距離の離れた場所ーから、そのちらっと見えたイメージだけで、「ゲームってよくない」と思ってしまっていたわたし。
 

 

さあ、もしそれが逆転して「アートってよくない」ってイメージを持たれたりしたら?わたしはどう思う?
 

どう考えても、嬉しくはない。嫌な気持ちになると思う。もしそんなことがあったらきっと、それに反発して、何か抗議すると思う。「わたしのしていることはとても有意義だ」って。言葉にするか、作品を出すのかはわからないけれど。価値がないって言われて「そうなんです」って受け入れたりはしない。

 



とにかく彼の大切にしている王国を、その価値が見えない場所から見て、「そこはよくない!」と叫ぶのって無礼だなと思えるようになった、というだけでも私は随分楽になった。
彼の王国の扉をどう開けば、わたしがその「良さ」を理解できるのかわからないけれど、わからないままであっても尊重できるかも。というか、彼はそうしてほしいんだなと思うから。
長男が満足いくまで、「ゲーム王国」を楽しんでみればいいか。

 

これが彼の将来に、彼の人格にどう影響するのかなんて想像もつかないけれど、
わたしが彼に対して具体的にどういう人間になってほしいなんてことを思うのってなんかおかしいよなって思うし。

母親だから、「幸せそうだな」っていうのは表情みていればわかる。
なんとなく直感的に通じているものがあるんだな親子って、と私は思う。
それが基準。長男が自分に、自分のしていることに満足のいくように過ごしてくれたらいいや。




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