「Port」の界面。
してん てざわり 眼2017年制作の「Port」。
ここからどこかへ行くし、
どこかからここへ戻ってくる。
作品が港みたいな場所になれたらいい。
そんなこと思いながら名前をつけた記憶があります。
最初のタイトルは、「ただいま、おかえり。」
だった気がする。
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その作品の表面を、カメラで追った。
雨の日に、青の青さがより深くなっていて、きれいだったから。
釉薬のかかっている部分のガラス質が、雨に濡れて深度を増しているように感じたから。
単純に。雨音の中で作品を眺めているのがすきだから。
私のなかにいろいろな気持ちは確かにあったけれど、
それは映像にはなにも関わらないのだなと、パソコンの前で映像を眺めてそう思う。
映像は、わたしがカメラのレンズ越しに「こうして眺めている」ということを記録しているだけ。
それは、対象とわたしとの関係でもあるし、カメラとわたしとの関係でもある。
その「関係」が映像として結ばれているのだと思う。ただ、事実として。
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この作品の肌にはわたしの内側が露骨に反映されている。
陶器の形状にせよ、この色にせよ、わたしがその時意識的にか無意識にか顕在化させたもの。
2017年の今頃、かたちになって顕れたもの。
もしかしたらこの時外側へ出したはずのものはまた、わたしの内側に芽生えて渦巻いているのかもしれない。そう感じたのは、この映像を眺めてわたしの感覚が妙に蠢いたから。
「relate」
そう感じる。繋がるものがまだ内側にある。それはまた作品としてなのか、何かきっと自分の外側にかたちとして出さないと、わたしに(わたしの精神とか身体とかに)支障をきたす存在になるんだろう。
そろそろ出すときなのだろうなというのも思う。
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というのはわたしの話だけれど、
どうだろう。
この映像は他の誰かの内面に響くのだろうか。
こころの暴露にもしかしたら繋がるような、刺激になり得るのだろうか。
遠い記憶や、或いは今の身体/精神状態と近しいなにかに思えるだろうか。
心地よさでも悪さでも、なにかしら喚起するものとして。
どうだろう。
2020.5.23