世界をかたどる情報の周辺。
してん 境目 眼アメリカ大統領選挙が、―とりあえず―終わった。(「ごねる」というのが起こるかもしれないらしいけれど。)
わたしは振りきれている(ように見える)トランプさんの政策が、善いと思えない(とりわけ白人至上主義的に見えるというところで)、と思うことも多々あったし、日本人はじめ有色人種の友人、トランスジェンダーの友人、アーティストの友人の生の声を聴いていて、彼らの気持ちに共感することも多くて。
「よかった」とこぼした。
でもそこで主人は、「そんな楽観的な話ではないよ。」と。
先に断っておくと、彼は今回の選挙について、一個人の心情として何か思うところはないということだった。
彼曰く、トランプ氏の振りきれた主張は、一定の鬱憤を抱え続けていた白人の代弁でもあって、誰も触れることのなかった白人弱者側の抱える問題を初めてここまで明らかにしたということもできる、と。(例えば、大学入試で白人と黒人同じ点数なら黒人が選ばれるという構造もあるらしい。実際警官に射殺されている数の割合でいったら、白人の方が多い、移民の労働者の賃金のほうが安いから、白人より移民が採用されやすい。などなど彼が集めた情報はいろいろあった。)それを明らかにした上で、トランプ氏がこれからどう展開しようとしていたかというのを誰も知らない。白人は黒人より優遇されているっていうイメージが固着しているけど、その当たり前になってしまっているイメージの裏で、反論の機会なく不利な状況に置かれている人たちも大勢いたからこそ、支持層があれだけ膨らんだ、そのことには意味があったのだと。
なるほど。と思いつつ、わたしはこれ以上大統領選挙のことについてなにか論じることはしないけれど、
大統領選挙のこと以上に、主人の見ている情報とわたしの見ている情報とでここまで違いがあったのだなということや、それによって同じ「事」を観ていても、捉え方はこんなに変わるものなのだなと少しショックを受けた。
わたしはこの1年くらい、フォーカスしていたのは黒人差別がなぜ始まったかのかということについてだったから。白人に起こる不利益な状況について、知ろうともしなかった。
情報を選択する自由は勿論あるのだけれど、その手前ですでに意識の操作というか、いくつかあるスイッチのどれが押されている(推されている)かで、選ぼうとするものが変わって、見えるものも変わるものなのだなと。意識の構造も。
そもそも、彼の友人と、わたしの友人では、置かれてる状況の違いもあって、触れられる「現実」がそもそも違う。マジョリティー、マイノリティー。どちらかというと、わたしはマイノリティーの友人の方が多い。彼らの声を聴く機会の方が多いから、「問題」として捉えられることは当然、マイノリティー側の主張であることが圧倒的に多い。で、主人はというと、私ほど誰かと密に関わるということもなく、彼自身、マジョリティーでもマイノリティーでもないので、情報を選択するときにそのどちらにも寄ることが起こりにくい。
どちらがいいか、悪いかということは無いと思うけれど、前提として情報というのは無責任に無差別に転がっていて、結局何を真実にするかというのは個々人の生きて置かれている状況に依拠するし、その選択は実際のところ個人の責任になるように社会の側から設定されている、もしくは操作されているのだなあということ。
例えば、統計とか、数字を見せられるとどうも説得されがちだけれど(わたしは)、でもその「情報」は、そういう結果に到達するようなプロセスを人間が意図的に作ることも、実際可能なわけで。なにが現実の状況について誠実で、真実を語っているのか、よくよく考えるとすべてが疑わしく思えてしまう。
「僕らのみている世界なんて、僕らが触れられないものに比べたらどれほど小さいか」と、主人は言っていた。
「僕らの手に届くまでの間に、ありとあらゆる事実は「コーディネート」されてもいるからね、こちらが望もうと、望まなかろうと。」
言葉というものの機能の善と悪の側面に常にわたしたちはさらされているのだなと思うと、改めて人間の社会はこわいなと思って背中にピリピリと電流のようなものが走った。
「言葉と、視覚的なイメージと、さらに触覚、聴覚がそこに加えられた情報になったら、人間なんて簡単に操られてしまうよ、人間のしくみをよく理解している人たちには容易いものだよね。」
と、此処まで来て、なんだかアートもそれはそっくりそのまま同じ事が言えるのだなあと感じた。それと、その中の言葉を抜いた時に、情報がかなり曖昧なものに還元されて、それこそ個人の直観に委ねられることになるのだなというのも。情報がなくなれば無くなるほど、たぶん、遺伝子レベルでの直観が働きやすくもなるのではないかなと、―また突飛だけれど―私はそう思った。
だとすると、わたしが制作や、作品について、言葉の情報を付加したがらない理由の説明がつくのかなと。人間の枠を越えて、動物の枠も越えて、生物の枠を越えて、もっともっと還元された分子とか、原子とか、量子とかのレベルの直観まで到達することができたらいいのに。と、わたしは常々思って居る。人間の意味づけを理解したうえで、その直感も使えたら、初めて「客観」というのが成立する気もして。
なんだか、大統領選挙からどうしようもなく果てしない話になってしまったけれど。嫌でも人間社会で生きていくには言葉や情報によって人工的にかたちづくられたものと対峙していく必要があって、そのなかで自分がアートという領域の一端を担っているのだなあと思うと、これまで以上に自分の核心―確信―というのを大切にしていきたいなというのも同時に思う。社会の構造がどうあれ、アートの歴史がどうあれ、わたしの遺伝子がはてしない宇宙とコネクトしているところから素直に導き出せるものがあれば、一見現実と乖離しているように見えても、そのギャップの意味を考察するところから、世界のよじれや歪みといったものを自分の眼と感覚で確かめられるかもしれない。少なくとも「自分にとっての」それを。
…疲れた。柄にもなく、ちょっとだけ政治的なこととか、社会の裏側とか、いろいろ思いを馳せたから。(NETFLIXの、ブラックリストとか、裏社会モチーフなドラマはだいすきな癖に。)
だれか他者のために、というのでなく自分が安心して制作に没頭するために、またこの続きを書こうと思う。