暗闇の中の、光の輪郭
してん 境目2022年4月。福岡での展示があったため、人生で初めて「福岡旅行」をしました。
そのとき、友人から、「展示会場の近くには、「東長寺」という、弘法大師が開いたとされる密教のお寺があり、そこには「地獄めぐり」と呼ばれるものが在る」と聞き、行ってみました。
「地獄めぐり」だなんてなんだか物々しい響きですが、「真っ暗で光のない中を、手摺りを伝いながら歩いていくと、途中に輪があって、それに触れることが出来たら極楽浄土へいける」のだとかで。
「いったいどんなものかな」と…。自分の運を試すような気持ちで「暗闇」に入りました。
別軸で、大学院で修士論文を書いているときに、中沢真一さんの著書の中で、「密教の修行で暗闇の中に籠る」というものがあると書いてあったのを読んだ記憶が、わたしの脳裏に残っていたことも、わたしを「地獄めぐり」へと向かわせる動機になりました。
曖昧な記憶でしたが、「暗闇の中で過ごしてしばらくすると、真っ暗なはずの空間に抽象形態をした光が見えるようになる」と中沢さんは文中で仰っていたのです。
―余談ですが、この「地獄めぐり」という真っ暗な道は、東長寺に祀られている大きな木造の大仏様の真下を通っています。―
果たしてわたしは、極楽行きの切符を手にするのか、暗闇の中に光の抽象形態を見ることが出来るのか。実験のような心地で「地獄めぐり」に足を踏み入れました。
入口を入って少しすると、眼を開けていても、視界を分厚い布で覆われたように何も見えなくなり、手摺り以外は文字通り“つかみどころのない”感覚に陥りました。天井はどこまで高いのかわからない。地面に足はついているけれど、そこまでの距離も暗闇の中だと途方もなく深くまで続いているように感じ、自分の足元が無いかのように感じました。
ゆっくりと(5秒に一歩くらい、自分の足のサイズ分進むペースで)前へ進んでいくうちに、ふとした瞬間自分の後ろ側から光が差しているのに気が付きました。視界の縁がふわっと光って見えるのです。「地獄めぐり」は真っ暗闇だと聞いていたので、「きっと誰か怖くて携帯のライトでもつけたのだろう。」とわたしは思いました。
でも、振り返って後ろを向いても、誰もいないし、予想していたような光はありません。その代わりにまた、自分の後ろから光が差しているように見えるのです。
「なんでなんだろう」とわたしは困惑しました。あんまりにも不思議だったので、しばらく、前を向いたり後ろを向いたりを繰り返しました。
視界の輪郭は、丸く見えたり、四角く見えたり、少しずつ変化しました。それはなんとも言えない柔らかくて優しい光の縁でした。
例えるなら、金環日食のときに見えるあの「金環」が淡く滲んだような…。
光の輪郭は、わたしの視界の中心に向かって暗闇に染まっていくようでした。
なぜそう見えるのかはわかりませんでしたが、途中から「なぜ」と考えるのも忘れて、美しいその光の縁取りをぼうっと眺めていました。
眺めるというよりも…最初は、その光の輪郭の内側に自分が居るように感覚していた、というほうがよりわたしの実感には近いかもしれません。光の縁取りはわたしの視界の臨界そのもののようでした。そのうちに、輪郭と自分が重なる感覚を覚え、また少しすると、光の縁の向こう、外側へも(視界の中心を内とするなら)自分/感覚が拡がるのを感じました。
真っ暗な空間では、時間感覚が狂います。「地獄めぐり」に入ってからでるまで、わたしは10分以上、その中にいました。(地獄めぐりから脱出して、時計をみて自分でも驚きました。)「地獄めぐり」を体験したひとはわかると思いますが、1~2分もあれば出てこられる場所です。
わたしがノソノソと大仏の足元にある「出口」に現れると、管理人のおじいちゃんも、「知らない間に帰っていったのだろうと思っていたよ」と笑っていました。
ただ、その中に光の抽象形態が見えることは、ついにありませんでした。わたしは少しがっかりしましたが、それでも、視界の範囲を縁取るような、光の淡い「金環」を感覚できたことは自分にとって貴重な経験でした。
―ちなみに、途中にあるという「輪」は一度も手に触れることはなく。まあ、「極楽浄土への直行特急券」はもらえなかったけど、地道に回り道していけということでしょうね。―
この「暗闇での経験」のあと、中沢新一さんが「芸術人類学」の中で書いていた事を確かめないといけないと思い、本を開いて、彼が「密教の暗闇の修行」について書いている頁を探しました。
やはり、曖昧な記憶というのは曖昧なもので。書いてあったのは彼自身が経験したことについて、でした。一週間と思っていた修行の期間は、九日間だった、とか…。
ともかく、引用します。以下のように記述されていました。
「…経験に汚染されない先験的知性には形態性がともなっている、つまり超越性の領域で働く知性はエイドスをそなえている。これは、私などにはじつになじみ深い考え方です。ごぞんじの方もいらっしゃるかと思いますが、私は若いころ、チベット人のところで仏教の修行をしていました。そのときまったく光の射さない完全な暗黒の部屋をつくり、その中に九日間籠もる修行をしたことがあります。真っ暗な空間の中で、自分の「菩薩心 Boudhicitta」の真実の姿を、光のかたちとして見届けるという修行です。
そんな体験をしたことのなかった私は、暗黒の部屋の中でびっくりすることばかりでした。暗闇の中に入って数時間もすると、視神経の奥から自然に光が放たれるようになりますが、それが日が経つにつれて、つぎつぎとさまざまな美しいかたちに姿をかえてくるのです。目の前の空間が、視神経の奥からほとばしり出てくるそうした光の図形で、いっぱいにみたされていきます。そして、そこに出現してくる「かたち」は、わたしがかつて人類学の報告書などで見ていた「内部視覚 entoptic」のあらわれる抽象図形(アマゾンのインディオはそれを観るのに幻覚性植物を用います)とそっくりなのです。」(「芸術人類学」中沢新一著、p148, L1~L12)
わたしが記憶していたよりもずっと、彼が経験していたのは凄まじい光景だったのだと、読みながら改めて驚きました。わたしが、「自分の後ろから光が射しているように」感じたのは、彼が言うところの「視神経の奥から自然に光が放たれる」現象と近似しているのかなと思いつつ。
ですが実際のところ、彼が眼にした光景が具体的にどのようなものであったかはわかりません。彼の言葉から、その景色を想像することはできても。暗闇ですから、写真に撮ることもできない。絵に描いたとしても、彼の感じたそのままを表現すること、また彼が体感したそのままを受け取ることは極めて困難でしょう。
この文章を書きはじめた4月末から随分時間が経ちました。もう明日から6月です。この間、自分の書いた文章がどうもしっくりこないことが続き、わたしは文章を書いては消してという行為を繰り返してきました。ですが今日、ようやく、いまここでわたしが言えることにたどり着きました。
それは、自分が体感することの重要性です。そしてその体感に依拠した表現をすることの大切さです。そこにこそ真実が宿るのだと思います。当たり前のことのようですが、それにつきます。
中沢さんの文章の引用の中に、「自分の「菩薩心 Boudhicitta」の真実の姿を、光のかたちとして見届ける」とあります。
真っ暗闇の中での私の経験を基にすると、“自分の(「菩薩心の」)真実の姿”というのは結局、“自分の実感”だと私は思うのです。他のナニモノでもない(外在する観念に触れないまま在る)、判別も加えられない状態の自分です。
少し、話を巻き戻します。
わたしは先に、「地獄めぐり」の意図を友人から聴いていたし、それに、中沢さんの「芸術人類学」の中で読んだことの記憶も残っていました。暗闇の中で、わたしはてっきり「光の抽象形態に出会える」ものだと自分に期待をしていたし、それが可能だという根拠のない自信も私の中の何処かにあった。でも、その期待は、わたしが「地獄めぐり」に足を踏み入れたことで、あっさり打ち砕かれました。「ああ、わたしには見えない。感じ取れない…」とがっかりしたわけです。
無意識にですが、わたしは前情報(中沢さんの言葉)を「正解」としていた。だから、その「正解」の情報にわたしの体験を照らし合わせ、わたしの体験は「不正解」あるいは「至らなかった」と、最初そう思ってしまった。
でもその一方で、というかほぼ同時に別の事象も起きていました。視界が光で縁取られた。それはわたしにとっては説明のつかない面白い現象でした。瞬間、夢中になりました。直感的に、目の前に現れた事象に向けて自分のあらゆる感覚も意識も素直に明け渡しました。
なんとも説明しがたいのですが、そうせざるを得なかった、そうするように誘導されたようでした。そのとき、自分が“その場自体になった”と感じました。
「ああ、これがわたしにとっての真実と呼べるものだ」と。
“見えた光の縁取り”が、という意味ではありません。そのとき起こった事象、自分を含めた総てが、「真実」だという意味です。自分の感覚が内に外にと自在に時空間と戯れているような、それを“みている”こと、“感じている”こと、受け取っていることの全部です。
(言葉にするとどうも陳腐でいけませんね。それに「真実」とはなにかという定義も恐らく必要なのでしょうが、これが論文ではなく「エッセイ」的なものだというところで緩やかに捉えていただければ有り難いです。)
だから、「真実」というか、「真実の場」といった方がわたしにはしっくりときます。
「場」という言葉には(真実)というニュアンスがそもそも含まれているのかもしれませんが…。
其処から派生して。「真実の場」が自分の内側にあるのか、外側にあるのかというのは殆ど問題にはならないということも思いました。なぜなら「場」には内も外もないから。
わたしの暗闇での実感を元に具体的に話すと、暗闇の中で、内と外は常に移ろい巡っていました。交代するのとも違います。総て―あらゆる物質―が変化して同じところに戻らない状況において、内と外も常にその役割を変化させながら存在していたのです。地獄めぐりを体験してからこの1か月間、あの場を離れて自分の感覚を追う中でも、そう感じています。
内内、内外、外外、外内、そして内も外もない、内でも外でもある…、その全てを包括するような「実感=自分=真実の場」。
しかも、かたちのある自分の身体から実感だけを取り出していいなら、―これは実際にー実感は自分の身体を超えて無限に拡張もするし無に向かうこともできる自在さをもっていると、わたしは実感しています。
ところで。
わたしの実感をもとに、わたしの手元にある言葉だけで、なんとかこうして文章に綴っていますが、恐らく数パーセントもわたしが話していることは正確に伝わらないだろうと、わたしは思っています。そういうものだからです。わたしの身体をまるごと呑み込んでその人の身体自体でわたしが体感したすべてのことを、わたしが触れた状況、条件すべてそのままにスキャンできれば、或いは伝わるかもしれません。でもいまのところ、それは無理です。それに、仮にそれが実現出来たところで何も面白くないと思う。
だって、そこに「真実」はないからです。わたしの「真実」は究極のところ、「わたし」でしかないからです。それでも、わたしたちは…というか少なくともわたしは、「真実」が通じ合うと信じています。「ああ、わかる」と、自分以外の誰かに言いたい、そして誰かから言われたいのです。
それ自体「真実」だし人間というものだと私は思っています。
中沢さんの言葉はわたしにとって、「真実」として受け取ることが出来るものでした。その文章を読んだだけで「素晴らしい」と感動したし、事実その感動の感覚が何年もわたしの中に残っていましたから。それとわたしが自分の実感で“みた”「真実」とは、状況からみたら違うものですが、同等、等価の「真実」と呼べるものだとわたしは思うし、通じるものがあるということも感じています。
「実感」とは、「真実」とは、そういうものなのです。ひとつではない、それぞれの人に向かってやってくるモノで、個々のモノであるのだけれども、「真実」を求める人同士は全く違うかもしれないそれに対して自分の「実感=真実」でアクセスを試みる。ほとんど本能だと言っていいと思うのですが。
「そういうものなのだ」と、わたしは今回の「地獄めぐり」の経験を通過したことですとんと腑に落ちました。此処まで書いておいて、、、なのですが、今のわたしにはとりわけ此処で書いたことは必要のない状態になったのです。
“ものをつくる”ことについても同様に。
ただ、この「つくる」ことについては少し、枝葉を伸ばしてみたいと思います。それは次回に。
・
今日はここまで。