距離。被膜。本質。
してん 境目photo by Taisei MATSUMOTO
何も感じていないわけがない。
寧ろいろいろを感じすぎる。
だからある程度、この世界と、社会と、距離を置かないといけない。
(そういう意味で此処、結城にいるのはちょうどいい。)
ロシアとウクライナのときもそうだったけれど。
今の中東の戦いも。
CNNをみたり、BBCのニュースをみていて、
生きていることの意味が揺らぐ。
起きている事実にどう向き合うんだろうわたしは、と呆然としてしまう。
もし自分の身に同じことが起こったら?と想像すると吐き気に襲われて、
身体がずんと重たくなってしまう。自分がどれだけ平和な場所にいるのかと、
感謝以上に罪悪感を覚える。
だからわたしは、
たとえどれだけ悲惨な状況を知っても、あまり気持ちを動かし過ぎないように努めないといけない。そうしないと目の前の大切な家族まで巻き込んでわたしはどん底へ落ちようとしてしまうから。
難しい、本当に。だってわたしには理解しようのない歴史と文化、精神、なにより信仰のあるひとたちの、なにをどう理解できるだろう。「同じ人間」なんて口が裂けても言えない。
彼らからしたら、八百万の神とか、信仰をもたないなんて。あり得ないという話なのだろうし、日和見主義者に見えてもおかしくないと思う。
(この日本人のひとつだけに正解をおかずに核心をふわっとさせるセンスは、フレキシブルで流動的で柔軟でしなやかでユーモアがあると言えるとわたしは思っているけれど。)
もちろんわたしだって。
酷いことは酷いと思う。でもあんなに怒らないといられない、その原点は、怒りのはじまりは、本当はどこにあるんだろうというのは、とても気になる。
どう考えたって、意図的に他者/自分を死に追いやるのは善い行いとはいえないけれど、
そんな行動に出てしまうくらい、追い詰められなければならない、平和よりも憎しみと闘いに走らざるを得ない状況が創造されてしまった背景に、わたしは思いを馳せてしまう。
わたしたちに見えている(見せられている)「事実」といわれているものは、煮物をしたとき上にうっすらとできる油の被膜の表面のようなものでしかない、とわたしは感じていて。
本質とは乖離していることもきっと多いだろうと。
でも一個人で収集できる情報なんて、結局そういう「油の被膜」くらいなもの。諜報員でもなければ。
正しさは、どこに立つかで変わってしまうし。誰に、何に寄り添いたいかによる。
被膜を根こそぎとって、少しでも本質に触れたいけれど、どうしたらそうできるのかもよくわからない。
もちろん、わたしは巻き込まれてしまった、戦いを望んでいないひとたちに寄り添いたい。こころは。
だけれど、戦いはそことはほとんど関係のない領域(同じ地区に居る云々じゃなく精神的な意味)でおきていて、戦いを望んでいない人たちが一番悲惨な目に合っているにもかかわらず、戦っている当人たちにとってその被害者はとるにたらない存在なのだというのは、悲しいけれど事実なのだろうと、どんなニュース記事をみていても感じる。
人道支援のための募金という加勢のしかたがあるとニュースで募金を呼び掛けているけれど、、、それも実際のところどこまで有効なのか。
ウクライナとロシアの戦争が起こってしまったとき、いてもたってもいられずに作品をドネーションしたり、募金をしたり、そのためのワークショップもしてみたりした。
でも、どうだろう。何がどう、良くなったんだろう。
何もしないよりは、何かアクションを起こすべき。
頭ではそうわかっているけれど、どちらへ一歩踏み出せばいいのか。
今回わたしは珍しく、とても慎重で、臆病になってしまっている。
こんなことが繰り返されていくんだろうな、これから先も未来永劫。
それでも命をつないでいかないととわたしは感じていて。
この使命感にも似た何かは一体なんなのだろうと、
この世界に生きていてどんなことよりもそのことを(つまり自分の強い衝動を)本当に不思議に思う。