Chisato Yasui
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暗闇の中の、光の輪郭

2022-06-11 境目

photo by Taisei MATSUMOTO

2022年4月。福岡での展示があったため、人生で初めて「福岡旅行」をしました。

そのとき、友人から、「展示会場の近くには、「東長寺」という、弘法大師が開いたとされる密教のお寺があり、そこには「地獄めぐり」と呼ばれるものが在る」と聞き、行ってみました。

 

 

「地獄めぐり」だなんてなんだか物々しい響きですが、「真っ暗で光のない中を、手摺りを伝いながら歩いていくと、途中に輪があって、それに触れることが出来たら極楽浄土へいける」のだとかで。

「いったいどんなものかな」と…。自分の運を試すような気持ちで「暗闇」に入りました。

 

別軸で、大学院で修士論文を書いているときに、中沢真一さんの著書の中で、「密教の修行で暗闇の中に籠る」というものがあると書いてあったのを読んだ記憶が、わたしの脳裏に残っていたことも、わたしを「地獄めぐり」へと向かわせる動機になりました。

曖昧な記憶でしたが、「暗闇の中で過ごしてしばらくすると、真っ暗なはずの空間に抽象形態をした光が見えるようになる」と中沢さんは文中で仰っていたのです。

 

―余談ですが、この「地獄めぐり」という真っ暗な道は、東長寺に祀られている大きな木造の大仏様の真下を通っています。―

 

果たしてわたしは、極楽行きの切符を手にするのか、暗闇の中に光の抽象形態を見ることが出来るのか。実験のような心地で「地獄めぐり」に足を踏み入れました。

 

入口を入って少しすると、眼を開けていても、視界を分厚い布で覆われたように何も見えなくなり、手摺り以外は文字通り“つかみどころのない”感覚に陥りました。天井はどこまで高いのかわからない。地面に足はついているけれど、そこまでの距離も暗闇の中だと途方もなく深くまで続いているように感じ、自分の足元が無いかのように感じました。

ゆっくりと(5秒に一歩くらい、自分の足のサイズ分進むペースで)前へ進んでいくうちに、ふとした瞬間自分の後ろ側から光が差しているのに気が付きました。視界の縁がふわっと光って見えるのです。「地獄めぐり」は真っ暗闇だと聞いていたので、「きっと誰か怖くて携帯のライトでもつけたのだろう。」とわたしは思いました。 

 

 でも、振り返って後ろを向いても、誰もいないし、予想していたような光はありません。その代わりにまた、自分(・・)の(・)後ろ(・・)から(・・)光が差しているように見えるのです。

「なんでなんだろう」とわたしは困惑しました。あんまりにも不思議だったので、しばらく、前を向いたり後ろを向いたりを繰り返しました。

 

視界の輪郭は、丸く見えたり、四角く見えたり、少しずつ変化しました。それはなんとも言えない柔らかくて優しい光の縁でした。

例えるなら、金環日食のときに見えるあの「金環」が淡く滲んだような…。

光の輪郭は、わたしの視界の中心に向かって暗闇に染まっていくようでした。

なぜそう見えるのかはわかりませんでしたが、途中から「なぜ」と考えるのも忘れて、美しいその光の縁取りをぼうっと眺めていました。

 

 

眺めるというよりも…最初は、その光の輪郭の内側に自分が居るように感覚していた、というほうがよりわたしの実感には近いかもしれません。光の縁取りはわたしの視界の臨界そのもののようでした。そのうちに、輪郭と自分が重なる感覚を覚え、また少しすると、光の縁の向こう、外側へも(視界の中心を内とするなら)自分/感覚が拡がるのを感じました。

 

真っ暗な空間では、時間感覚が狂います。「地獄めぐり」に入ってからでるまで、わたしは10分以上、その中にいました。(地獄めぐりから脱出して、時計をみて自分でも驚きました。)「地獄めぐり」を体験したひとはわかると思いますが、1~2分もあれば出てこられる場所です。

わたしがノソノソと大仏の足元にある「出口」に現れると、管理人のおじいちゃんも、「知らない間に帰っていったのだろうと思っていたよ」と笑っていました。

 

ただ、その中に光の抽象形態が見えることは、ついにありませんでした。わたしは少しがっかりしましたが、それでも、視界の範囲を縁取るような、光の淡い「金環」を感覚できたことは自分にとって貴重な経験でした。

 

―ちなみに、途中にあるという「輪」は一度も手に触れることはなく。まあ、「極楽浄土への直行特急券」はもらえなかったけど、地道に回り道していけということでしょうね。―

 

この「暗闇での経験」のあと、中沢新一さんが「芸術人類学」の中で書いていた事を確かめないといけないと思い、本を開いて、彼が「密教の暗闇の修行」について書いている頁を探しました。

 やはり、曖昧な記憶というのは曖昧なもので。書いてあったのは彼自身が経験したことについて、でした。一週間と思っていた修行の期間は、九日間だった、とか…。

ともかく、引用します。以下のように記述されていました。

 

 

「…経験に汚染されない先験的知性には形態性がともなっている、つまり超越性の領域で働く知性はエイドスをそなえている。これは、私などにはじつになじみ深い考え方です。ごぞんじの方もいらっしゃるかと思いますが、私は若いころ、チベット人のところで仏教の修行をしていました。そのときまったく光の射さない完全な暗黒の部屋をつくり、その中に九日間籠もる修行をしたことがあります。真っ暗な空間の中で、自分の「菩薩心 Boudhicitta」の真実の姿を、光のかたちとして見届けるという修行です。

そんな体験をしたことのなかった私は、暗黒の部屋の中でびっくりすることばかりでした。暗闇の中に入って数時間もすると、視神経の奥から自然に光が放たれるようになりますが、それが日が経つにつれて、つぎつぎとさまざまな美しいかたちに姿をかえてくるのです。目の前の空間が、視神経の奥からほとばしり出てくるそうした光の図形で、いっぱいにみたされていきます。そして、そこに出現してくる「かたち」は、わたしがかつて人類学の報告書などで見ていた「内部視覚 entoptic」のあらわれる抽象図形(アマゾンのインディオはそれを観るのに幻覚性植物を用います)とそっくりなのです。」(「芸術人類学」中沢新一著、p148, L1~L12)

 

 

わたしが記憶していたよりもずっと、彼が経験していたのは凄まじい光景だったのだと、読みながら改めて驚きました。わたしが、「自分の後ろから光が射しているように」感じたのは、彼が言うところの「視神経の奥から自然に光が放たれる」現象と近似しているのかなと思いつつ。

 

ですが実際のところ、彼が眼にした光景が具体的にどのようなものであったかはわかりません。彼の言葉から、その景色を想像することはできても。暗闇ですから、写真に撮ることもできない。絵に描いたとしても、彼の感じたそのままを表現すること、また彼が体感したそのままを受け取ることは極めて困難でしょう。 

 

この文章を書きはじめた4月末から随分時間が経ちました。もう明日から6月です。この間、自分の書いた文章がどうもしっくりこないことが続き、わたしは文章を書いては消してという行為を繰り返してきました。ですが今日、ようやく、いまここでわたしが言えることにたどり着きました。

それは、自分が体感することの重要性です。そしてその体感に依拠した表現をすることの大切さです。そこにこそ真実が宿るのだと思います。当たり前のことのようですが、それにつきます。

 

中沢さんの文章の引用の中に、「自分の「菩薩心 Boudhicitta」の真実の姿を、光のかたちとして見届ける」とあります。

真っ暗闇の中での私の経験を基にすると、“自分の(「菩薩心の」)真実の姿”というのは結局、“自分の実感”だと私は思うのです。他のナニモノでもない(外在する観念に触れないまま在る)、判別も加えられない状態の自分です。

 

少し、話を巻き戻します。

 わたしは先に、「地獄めぐり」の意図を友人から聴いていたし、それに、中沢さんの「芸術人類学」の中で読んだことの記憶も残っていました。暗闇の中で、わたしはてっきり「光の抽象形態に出会える」ものだと自分に期待をしていたし、それが可能だという根拠のない自信も私の中の何処かにあった。でも、その期待は、わたしが「地獄めぐり」に足を踏み入れたことで、あっさり打ち砕かれました。「ああ、わたしには見えない。感じ取れない…」とがっかりしたわけです。
 無意識にですが、わたしは前情報(中沢さんの言葉)を「正解」としていた。だから、その「正解」の情報にわたしの体験を照らし合わせ、わたしの体験は「不正解」あるいは「至らなかった」と、最初そう思ってしまった。

 

でもその一方で、というかほぼ同時に別の事象も起きていました。視界が光で縁取られた。それはわたしにとっては説明のつかない面白い現象でした。瞬間、夢中になりました。直感的に、目の前に現れた事象に向けて自分のあらゆる感覚も意識も素直に明け渡しました。

なんとも説明しがたいのですが、そうせざるを得なかった、そうするように誘導されたようでした。そのとき、自分が“その場自体になった”と感じました。

 

「ああ、これがわたしにとっての真実と呼べるものだ」と。

 

“見えた光の縁取り”が、という意味ではありません。そのとき起こった事象、自分を含めた総てが、「真実」だという意味です。自分の感覚が内に外にと自在に時空間と戯れているような、それを“みている”こと、“感じている”こと、受け取っていることの全部です。

(言葉にするとどうも陳腐でいけませんね。それに「真実」とはなにかという定義も恐らく必要なのでしょうが、これが論文ではなく「エッセイ」的なものだというところで緩やかに捉えていただければ有り難いです。)

だから、「真実」というか、「真実の場」といった方がわたしにはしっくりときます。

「場」という言葉には(真実)というニュアンスがそもそも含まれているのかもしれませんが…。

 

其処から派生して。「真実の場」が自分の内側にあるのか、外側にあるのかというのは殆ど問題にはならないということも思いました。なぜなら「場」には内も外もないから。

わたしの暗闇での実感を元に具体的に話すと、暗闇の中で、内と外は常に移ろい巡っていました。交代するのとも違います。総て―あらゆる物質―が変化して同じところに戻らない状況において、内と外も常にその役割を変化させながら存在していたのです。地獄めぐりを体験してからこの1か月間、あの場を離れて自分の感覚を追う中でも、そう感じています。

内内、内外、外外、外内、そして内も外もない、内でも外でもある…、その全てを包括するような「実感=自分=真実の場」。

しかも、かたちのある自分の身体から実感だけを取り出していいなら、―これは実際にー実感は自分の身体を超えて無限に拡張もするし無に向かうこともできる自在さをもっていると、わたしは実感しています。

 

ところで。

わたしの実感をもとに、わたしの手元にある言葉だけで、なんとかこうして文章に綴っていますが、恐らく数パーセントもわたしが話していることは正確に伝わらないだろうと、わたしは思っています。そういうものだからです。わたしの身体をまるごと呑み込んでその人の身体自体でわたしが体感したすべてのことを、わたしが触れた状況、条件すべてそのままにスキャンできれば、或いは伝わるかもしれません。でもいまのところ、それは無理です。それに、仮にそれが実現出来たところで何も面白くないと思う。

だって、そこに「真実」はないからです。わたしの「真実」は究極のところ、「わたし」でしかないからです。それでも、わたしたちは…というか少なくともわたしは、「真実」が通じ合うと信じています。「ああ、わかる」と、自分以外の誰かに言いたい、そして誰かから言われたいのです。

それ自体「真実」だし人間というものだと私は思っています。

 

 

中沢さんの言葉はわたしにとって、「真実」として受け取ることが出来るものでした。その文章を読んだだけで「素晴らしい」と感動したし、事実その感動の感覚が何年もわたしの中に残っていましたから。それとわたしが自分の実感で“みた”「真実」とは、状況からみたら違うものですが、同等、等価の「真実」と呼べるものだとわたしは思うし、通じるものがあるということも感じています。

「実感」とは、「真実」とは、そういうものなのです。ひとつではない、それぞれの人に向かってやってくるモノで、個々のモノであるのだけれども、「真実」を求める人同士は全く違うかもしれないそれに対して自分の「実感=真実」でアクセスを試みる。ほとんど本能だと言っていいと思うのですが。

 

 

「そういうものなのだ」と、わたしは今回の「地獄めぐり」の経験を通過したことですとんと腑に落ちました。此処まで書いておいて、、、なのですが、今のわたしにはとりわけ此処で書いたことは必要のない状態になったのです。 

 “ものをつくる”ことについても同様に。

 

ただ、この「つくる」ことについては少し、枝葉を伸ばしてみたいと思います。それは次回に。

 

・

 

今日はここまで。

ものがたりを。

2021-01-06 してん 境目 眼

photo by Yoshiki Shigematsu

なぜわたしが作品をつくるのか、

ということはやはりなにかの節目節目に考えていることで。

2020年を終えるころにわたしがこれだと思ったのは、「ものがたりをしたい。」という気持ちが、
わたしの「つくる」ことの根っこにあるのだなということ。

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世界をかたどる情報の周辺。

2020-11-08 してん 境目 眼

アメリカ大統領選挙が、―とりあえず―終わった。(「ごねる」というのが起こるかもしれないらしいけれど。)

わたしは振りきれている(ように見える)トランプさんの政策が、善いと思えない(とりわけ白人至上主義的に見えるというところで)、と思うことも多々あったし、日本人はじめ有色人種の友人、トランスジェンダーの友人、アーティストの友人の生の声を聴いていて、彼らの気持ちに共感することも多くて。
「よかった」とこぼした。

でもそこで主人は、「そんな楽観的な話ではないよ。」と。

先に断っておくと、彼は今回の選挙について、一個人の心情として何か思うところはないということだった。

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生息域

2020-11-06 してん 境目

今朝、テレビで淡水と海水の交わるところには限られた生物が生息している、というのを聴いた。
そこでしか生きられない植物もいるのだと。

淡水と海水、同じ「水」でも、其処に含まれる栄養素や役割はちがう。

その、淡水と海水の交わるところにだけ生息できる植物というのと、自分とを思わず重ねてしまった。

・

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いろんな王国がある。

2020-07-28 こども してん 境目

 

世の中、ひとそれぞれに大切にしていること、価値をおいていることってあって、
その全てに共感しあえたり理解しあえたりなんていうことは、おそらく不可能。
先日みた海外ドラマで、人間のニューロンの仕組みを活かして共感をひろげれば地球は平和になる、
なんていう話が(もちろんファンタジー)出ていたけれど、それは逆に恐ろしい結果を招くのではと、

わたしはぞっとした。
 

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「Port」の界面。

2020-05-23 してん てざわり 眼

2017年制作の「Port」。

ここからどこかへ行くし、
どこかからここへ戻ってくる。
作品が港みたいな場所になれたらいい。
そんなこと思いながら名前をつけた記憶があります。
最初のタイトルは、「ただいま、おかえり。」

だった気がする。
 

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Streamのてざわり。

2020-04-30 してん てざわり 眼

安井ちさとの作品のなかでも、「Stream」シリーズはとくに、感情の「はだざわり」を大切している作品。身体の内側で波打つ様々な感情の波形が、指や指の腹、掌によって形状記憶力の高い磁土に記憶されている。

普段はわたしは作品に「触れて」鑑賞してもらっている。なぜかというと、肌に触れることは、視覚よりも、単純且つ直に身体に情報を伝えてくれるとわたしは思って居るから。身体でわかるということは、そのひとにしか受け取りようのないもの。例えば、眼で見て「これは〇〇のようだ」と認識するのは、既知の情報が感覚していることを遮っている可能性も高いような気がしている。あくまでわたしは、そう感じているというだけで、「そうだ」とは言えない。でもそう感じていることは確か。

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りくのこすり絵

2020-04-30 こども

いま、ちょっとワケあっていろいろと動画をとって集めてみています。
子供が道端の草とか、石ころ集めるのに近い感覚。
これは、むすこがはじめて意識的にこすり絵をしている様子。
わたしは「手触り」を普段の制作のなかで大切にしているのだけれど、フロッタージュ(こすり絵)を通して、なにか内面の手触りに通じるもの見つけられたりするかなと思って。

動画は敢えて音声を消しました。むすこはなにかをしゃべっているし、フロッタージュ(こすり絵)が出来上がったをのみて、「〇〇みたいだ!」て叫んでます。うれしそうに。

どんなこと話しているでしょう?
こする音ってどんなでしょう?
彼は何に見えたのでしょう?
あなたには何に見えますか?

想像してみてください。

「わたしの在り処」ーnight

2020-04-29

写真家:中村温子さん撮影してくれた、安井ちさと個展「わたしの在り処」夜の風景。

「わたしの在り処」ーday

2020-04-29

写真家:中村温子さんが撮影してくれた、安井ちさと個展「わたしの在り処」の昼間の風景。

「わたしの在り処」- 安井ちさとの場合

2020-04-29 してん 展示

安井ちさとが撮影した「わたしの在り処」。

―――――――――――――

はじまりの点。-始点
・
わたしという点。-私点
・
ある景色をとらえるある点。-視点
・
いろんな方向にバランスをとる点。-支点

かそう

2020-04-27 こども



4月27日。これは、はんなが集めた桜の花。樹からぽろぽろ零れ落ちた子たち。


わたしたちの住む近くにある神社の境内に在る桜は、3月末から5月まで、種々様々な桜を咲かせる。

4月も終わりとなると新緑が目立っては来るものの、その隙間を縫うように八重の可憐な桜はぽつりぽつり顔をのぞかせている。

我が家の末っ子は桜の花が大好きで、今年からなぜか桜のことを「はる」と呼ぶようになった。
だから、桜の花が樹から落ちている様をみて、「春がいっぱい零れてる!」と言う。

今日は何を思ったのか、桜を苔の上にいくつも集め始めて、「まだきれいだねえ」「落ちても可愛いよねえ」と誰に話しているのか曖昧な声かけを繰り返していた。

桜の額が星のかたちをしているのをみつけて、
「わあ!春は星がたくさん!お星さまたくさん集めちゃおう!」と無邪気に喜んでいた。

(お花も星も、小さな女の子には共通して心惹かれるかたちなのだろうか。ふと、気になる。)

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境界を思う。

2020-04-22 境目

あちらとこちら。此方、彼方。わたし、あなた。

彼岸。此岸。

神社の境内に作品を置いたときに、

ぶわっとなにか別の世界が広がったような気がした。

はじめまして。

2020-04-21 序章

写真 : 中村温子
文 :安井ちさと

わたしのことを知っているかたも知らない方も、ここでは「はじめまして」。安井ちさとです。
陶磁で作品をつくっています。
自分のなかで、アーティストの定義が未だしきれていないため、アーティストとは言わないでおきます。
ここでは、上も下もなく安井ちさととして存在したいです。

この写真の中に写っているのは、2月29日~3月19日までスタジオ’Sで開催されていた、わたしの個展「わたしの在り処」の空間です。私の在り処、言い換えてみるとすると、感覚の在り処。訪れた人自身のそれが起動する装置のような場所にしたかった。

「わたしの在り処」。みなさんどのあたりにありますか?
みなさんに質問しておきながら、実は私自身「此処」というのは未だにありません。自分の感覚が動けば、「わたし、此処のあたり」というのも当然変わってしまうので、わたしはそれを小さい時からずっと、探したり、作ったりしてきました。常に感覚のいく先を追いかけているような心地でいます。それでも、この展示でようやく求めていたモノを体現できたような気がしました。
でもこれは、もうありません。期間が終わり、いまはまっさらな状態に戻されています。

この展示のあと、わたしはもっと日常的に、流動的に変化していく「わたしの在り処」を眺めるための場所が欲しいと思うようになりました。

●ブログを選んだワケ。

わたしの徒然を思うところを綴り、ちょっとひいて眺める場所がほしくて、ぎくしゃくながらもブログをはじめています。

それってすでにSNSでやっていたじゃない?と思われるかもしれません。が、それって、自分のための場所ではないのだなと気づいたのです。
他の人のフィー(ル)ドの隙間に居る感がすごかった。何かと何かの間を流動していたいという気持ちはあったのですが、SNSでは流動というよりも自分が埋もれていく感覚がものすごくて。でもそういうことをクリアに感じ始めたのは、最近のことです。
それまで正直、FBやInstagramに自分のことを書いていれば、満足できている気がしていました。なんだろう。「なにかしている」気にはなれていたのかな。発信をできているつもりだとか、繋がることができているつもりだとか。でも結局残っているのはなんだろう?と思った時に、あくまでわたしにとっては、ですけれど、あまりこれといって残るものないのだなと気が付いたのですね。
できているときもあったと思います。展示の情報発信だとか、なにか問題が明確なときの具体的なやりとり。友達との何気ない交流には励まされたし、振り返ってみて元気になるものもある。ただ方法としてわたしの生きる糧やなにかになっているかというと…という話。

「発信したい内容によってのコンテンツの使い分けをしなければならない。」先日とあるミーティングで、人と人のつながりを生むためのオンラインミーティングの仕方や発信のしかたについてブレストした中で、そんな発言がありました。

わたしがしたい作業が、SNSのなかでこんがらがっているのだなと、それを聴いてはっとしたのですね。
だからものすごくまっすぐに、自分と向き合うことに特化した場所を作ろうと思いました。


じゃあ、パソコンのWordを使うとか、日記に書くとかでもいいのでは?
そうですよねたしかに。
しかし。パソコンを使うと、当然ですがわたしの意識は「自分のパソコン」の中に居ます。それって自分の頭の中にいるのと私の感覚的には近いのです。パソコンの中が結構とっちらかっている、ということも一因。自分の記憶が入り乱れている場所に置いても、やっぱりどうも思考がクリアに見えないというのが実感としてあります。-パソコンの中の整理もしなければ、とは思う。
それと日記。手書きの速度の良さ、分量もあると思うのですが、それなら手紙にしたいかな。日記って、それもやっぱり自分の所有物で、他の誰も触れることのない場所なのです、わたしにとって。手放したい。
自分と向き合うときに、俯瞰もしたい。自分の中にあるものを自分の境界の外へ物理的に一度追い出さないと、わたしはそれが出来ない。他者が触れられる場所まで持っていきたいのですね。というのはわたし自身が他者の立場になりたいから、自分のことを他人ごととして眺めたいから。「へえ~。」と腕組みして眺められるだけの距離というのが欲しい。

前述したことと合わせて、だから、ブログなわけなのです。


これって、要するに「オープンスタジオ」とか、「公開制作」に近いものかもしれない。自分が試行している過程をみせるというのは。

レジデンスとか、たくさんのアーティストが集っているスペースってあります、集合住宅みたいな。あれも面白くて。
でもまずは、自分個人のスタジオで思考・試行していることをこの場で見せていく/外側から眺めることが出来たほうがいいなとわたしは思う。
そう思うとやっぱり、「私個人のブログ」がいいんだなというのを再度思うわけです。
このブログがなんとなく「こんな感じだ」というのが見えてかたちになってきた暁には、自分で集合住宅的なブログというのも立ち上げしてみたい気持ちはあります。

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ところで、一端自分の外側に放り出す。これっていうのは展示でもそうなのですが。ブログは展示ほど、なんというか命がけなものではなくて。もうすこしふわふわした状態を尊重する空間にしていくつもりです。漂う雲のような心地で。

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展示は宙(空)かな。
雲(ブログ)が晴れるとその向こうに宙(展示)がみえるのですが、また雲が流れて来て。みたいな掛け合いができるといいなあ。
(こういう話の跳び方を、普通にします。)
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ひとまず、この場所をつくった、ということで、なんだかざわついていたわたしのこころは、ふと落ち着きを取り戻しています。
ああ、そうブログって誰かのためになることを発信するイメージもあるのですが、此処は完全にわたしのために尽きます。
突き抜ける勢いで、私自身のため、です。極まりきれば、転じて「他者のため」にもなるかなと信じて極めます。


それと、一応書いておこう。
ただいまコロナカオスが世界に蔓延しようとしています。
人の心理も相俟ってどうも物事がシンプルに見えづらい状況です。ブログのはじまりにはそんな背景もあります。
 

 


これからは、「安井ちさとの思うところ」は此処になります。

よろしくお願い致します。

2020.4.23








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