ものがたりを。
してん 境目 眼
なぜわたしが作品をつくるのか、
ということはやはりなにかの節目節目に考えていることで。
2020年を終えるころにわたしがこれだと思ったのは、「ものがたりをしたい。」という気持ちが、
わたしの「つくる」ことの根っこにあるのだなということ。
なぜわたしが作品をつくるのか、
ということはやはりなにかの節目節目に考えていることで。
2020年を終えるころにわたしがこれだと思ったのは、「ものがたりをしたい。」という気持ちが、
わたしの「つくる」ことの根っこにあるのだなということ。
アメリカ大統領選挙が、―とりあえず―終わった。(「ごねる」というのが起こるかもしれないらしいけれど。)
わたしは振りきれている(ように見える)トランプさんの政策が、善いと思えない(とりわけ白人至上主義的に見えるというところで)、と思うことも多々あったし、日本人はじめ有色人種の友人、トランスジェンダーの友人、アーティストの友人の生の声を聴いていて、彼らの気持ちに共感することも多くて。
「よかった」とこぼした。
でもそこで主人は、「そんな楽観的な話ではないよ。」と。
先に断っておくと、彼は今回の選挙について、一個人の心情として何か思うところはないということだった。
今朝、テレビで淡水と海水の交わるところには限られた生物が生息している、というのを聴いた。
そこでしか生きられない植物もいるのだと。
淡水と海水、同じ「水」でも、其処に含まれる栄養素や役割はちがう。
その、淡水と海水の交わるところにだけ生息できる植物というのと、自分とを思わず重ねてしまった。
・
世の中、ひとそれぞれに大切にしていること、価値をおいていることってあって、
その全てに共感しあえたり理解しあえたりなんていうことは、おそらく不可能。
先日みた海外ドラマで、人間のニューロンの仕組みを活かして共感をひろげれば地球は平和になる、
なんていう話が(もちろんファンタジー)出ていたけれど、それは逆に恐ろしい結果を招くのではと、
わたしはぞっとした。
2017年制作の「Port」。
ここからどこかへ行くし、
どこかからここへ戻ってくる。
作品が港みたいな場所になれたらいい。
そんなこと思いながら名前をつけた記憶があります。
最初のタイトルは、「ただいま、おかえり。」
だった気がする。
安井ちさとの作品のなかでも、「Stream」シリーズはとくに、感情の「はだざわり」を大切している作品。身体の内側で波打つ様々な感情の波形が、指や指の腹、掌によって形状記憶力の高い磁土に記憶されている。
普段はわたしは作品に「触れて」鑑賞してもらっている。なぜかというと、肌に触れることは、視覚よりも、単純且つ直に身体に情報を伝えてくれるとわたしは思って居るから。身体でわかるということは、そのひとにしか受け取りようのないもの。例えば、眼で見て「これは〇〇のようだ」と認識するのは、既知の情報が感覚していることを遮っている可能性も高いような気がしている。あくまでわたしは、そう感じているというだけで、「そうだ」とは言えない。でもそう感じていることは確か。
安井ちさとが撮影した「わたしの在り処」。
―――――――――――――
はじまりの点。-始点
・
わたしという点。-私点
・
ある景色をとらえるある点。-視点
・
いろんな方向にバランスをとる点。-支点